曹洞宗

螢山禅師
螢山禅師

道元禅師
道元禅師




だれが始めたの?(宗祖)

曹洞宗は、中国禅宗(臨済など)の一つを、道元(1200〜1253年)が日本でひろめたものです。

道元は3歳で父(内大臣久我通親)を、8歳で母を失い13歳で比叡山にのぼります。14歳で天台70代の座主(ざす)公円について得度しましした。他の宗派の開祖の御多分にもれず、道元も天台教学に疑問をいだきます。そこで下山し、まず三井寺(園城寺)の長吏公胤に発心修行の疑問をたずねますが解決せず(皆仏になれるのだとしたら、なぜ修行をしなければないのか?)18歳で京都建仁寺に栄西をたずねました。しかし栄西すでになく、高弟・明全(みょうぜん)に師事し、臨済の禅風を学びます。

1223年、24歳の春、道元は明全ともに博多から中国宋をめざし現在の浙江省につきます。まず天童山景徳寺で修行をし、諸山を遍歴、1225年再び天童山に登り如浄(にょじょう)を師として曹洞禅を学びました。(身心脱落の境地を会得)途中同行していた明全の病死などありましたが、1227年帰国し、建仁寺にかえり「普観坐禅儀」を書きました。

これは、当時の仏教の無駄をそぐものであったため、当然延暦寺からの圧力がかかり、

「激揚のときをまつゆえに、しばらく雲遊して先哲の風を聞く」

と京都深草の安養院にしりぞきます。

坐禅中心の仏法を説く道元のもとに、生徒が次々と集まるようになると、1233年、日本ではじめて本格的な道場、禅寺、聖興寺をつくり法話をはじめました。それが「正法眼蔵」最初の「現成公按」「摩可般若波羅密」の2巻となりました。

比叡山の圧力からか、以降福井県に移り、1246年大仏寺を永平寺とあらため雲水の生活規範清規(しんぎ)を制定。只管打坐(しかんだざ)の仏法を弟子たちにつたえていきます。

教団としては、螢山(けいざん)により大教団へ発展していきます。大名、公家だけの教化ではなく、大衆教化に務めたため、現在曹洞宗は日本最大の寺院数を有しています。

教えは?

ここでもわたしには言葉でそれをうまく書き表すことができません。

心身脱落しすわり続ける「只管打坐(しかんだざ)」を重要とします。(公案をもちいるもちいないの違いで臨済宗との違いがとりざたされますが、なかには公案をもちいるお寺もあります。)

悟りを開くために座禅をするのではなく、「座禅」をする姿そのものが悟りであるとします。心のたがを破壊するのではなく、ゆっくりとひとつひとつとりのぞきます。そこに「心」本来がもつ仏性を体験します。

わたしは以前永平寺の雲水(修行僧)の修行風景のドキュメントをNHKが放送したものをみたことがあります。雪が降る中、雲水さんは入山を許可されるまで山門でひたすら待ち続けました。こまかな事はわすれましたが、大自然のなか仏道をこころざすその厳しさは鮮明に覚えています。ご飯も非常なストイックさでめしあがります(こまかく作法がきめられていたようです)。

座禅で心身脱落ができない雲水さんはぴたりとたたかれます。その一連のながれには美しさがありました。自然と座禅と食事と読経と就寝と一体にになった、永平寺でしかこのような修行はできないだろうとおもいました。むろん自分には無理ですが・・・・。

ご本尊は?

釈迦牟尼仏です。両脇にけい瑩山禅師、道元禅師のお軸をかかげることがおおいようです。

曹洞宗の本山は?

両大本山があります。

永平寺:
福井県吉田郡永平寺町志比
総持寺:
横浜市鶴見区鶴見

総持寺はもともと石川県門前町にありました。火事のあと1911年現在の横浜に移っています。わたしは何度か総持寺にいった事があります。膨大な敷地ですみからすみまで歩くのさえ骨が折れます。石原裕次郎さんのお墓があります。

お仏壇の飾り方

曹洞宗の仏壇

東京でこれだけ飾れるお家はあまりありません。大切なことはご先祖様に対する感謝の気持ちです。仏壇がりっぱでもお参りしなければただの箱です。

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